「え?」
相手が、少し首を前に出します。眉が動く。もう一度、同じことを言い直します。今度は少しだけ大きく。
それでも通じなくて、三度目。三度目はもう、自分でも何を言っているのかわからなくなっています。
「声、小さいよ」
言われるたびに、少しずつ削られていきます。仕事の中身ではなく、声で評価が決まっていくような感じ。家では普通に喋れているのに、なぜここでだけこうなるのか。あるいは——家でも同じように聞き返されてきたな、と思い当たるかもしれません。
この記事で渡したいものは、ひとつだけです。本題の前に、相手の名前を呼ぶ。相手が顔を上げてから、用件を話しはじめる。
声は大きくしません。大きくするのは、名前の二、三語だけです。
本題の前に、名前を呼ぶ
やることは、順番を変えるだけです。
これまでは、たぶんこうでした。
「すみません、あの、昨日の見積の件なんですけど……」
これを、二つに割ります。
「田中さん」——ここで一度、止まります。相手が顔を上げるのを待ちます。目が合ってから、「昨日の見積の件なんですけど」と続けます。
声を出すのは、「田中さん」の部分だけです。そこから先は、いつもの声量で構いません。
場面ごとには、こうなります。
- 席で作業している相手に——名前を呼んで、手が止まってから用件に入る
- 会議で発言するとき——「すみません」ではなく、議題名か相手の名前を先に置く
- すれ違いざま——歩きながら話しはじめず、名前を呼んで、相手の足が止まってから
- 電話を切った直後の相手に——受話器が置かれた音を待ってから、名前を呼ぶ
やってはいけないのは、相手が画面を見ているあいだに用件から入ることです。そこで話しはじめると、いちばん大事な最初の数語が、誰にも届きません。
なぜ、音量ではなく名前なのか
理由①:聞き返されているのは、声の大きさではなく「話しはじめ」
聞き返されるとき、相手には全部が聞こえていないわけではありません。多くの場合、聞こえていないのは最初の数語だけです。
ところが、最初の数語が欠けると、文の残りも意味をなさなくなります。話し言葉の単語認識は語頭から始まり、聞こえた最初の部分で候補が絞り込まれていく、という知見があります(Marslen-Wilson, 1987)。頭が欠けた文は、後半だけ聞こえていても組み立て直せない。だから相手は、全部をもう一度言ってくれと頼むことになります。
名前を先に置くのは、この「最初の数語」を、聞き取られなくても困らない場所に移すためです。名前が聞こえなければ、相手は顔を上げません。顔を上げないなら、こちらは用件をまだ話しはじめません。失敗が、用件の前で止まる。
理由②:大きな声は、続かない
「声を大きくすればいい」——これは、たいてい、もう試したあとです。
実際に試した人たちが書き残しているのは、こういうことでした。意識して大きな声を出しているが、そのために毎日ものすごく疲れる。聞こえる声量にしてみたら、自分がその音量に驚いてしまった。張ってみたら、今度は怒っているように受け取られてしまった。そして——急に声を張るようになったら、変に思われるのではないか。
つまり「大きくする」は、効かないのではなく、代償が大きすぎて続かないのです。一日だけならできる。半年続けるのは別の話です。
名前を呼ぶ方法には、この代償がありません。二、三語ですから疲れません。声のキャラクターも変わりません。まわりから見て、あなたが何かを始めたようには見えない。それでいい。
理由③:呼びかけの二語なら、下がる相手の前でも出る
上司の前でだけ声が小さくなる人は、声そのものが出ないわけではありません。家族や友人の前では、普通に、あるいは大きく話せている。
そういう場面で下がるのは、内容を言い切る確信のほうが揺れているからです。「これで合っているだろうか」「今、話しかけていいのだろうか」——迷いながら発した文は、語尾から先に落ちていきます。
名前は、そこが違います。相手の名前だけは、間違いようがない。迷う余地がないので、声が下がりません。だから、いちばん声が出にくい相手の前でも、名前の二語は出せます。
そしてもうひとつ。人は複数の音の中から一つに注意を向けて聞いていて、注意が向いていない側の内容はほとんど残らない、ということが古くから知られています(Cherry, 1953)。作業中の相手に話しかけるのは、注意が別の場所にある人に向かって話すのと同じです。そこに音量をぶつけても、届く先が空いていない。先に注意を、こちらに向けてもらう必要があります。
それでも聞き返されるなら、種類が違う
ここで、ひとつ確かめてほしいことがあります。
親や、仲のいい友達に、聞き返されますか。
この答えで、あなたの「声が小さい」は二つに分かれます。そして、やるべきことが変わります。
聞き返されない場合。あなたの声は、出ています。出ない相手と場面があるだけです。この場合、変えるのは声ではありません。声が下がる相手の前で、どういう順番で話しはじめるか——つまり、この記事の一手がそのまま効きます。声を鍛える必要はありません。
聞き返される場合。相手を問わず届いていないので、名前を呼ぶだけでは足りないことがあります。ただし、ここで「声を鍛えて大きくする」に戻らないでください。理由②のとおり、そこは続きません。かわりに、音量に頼らない渡し方を足します。
- 口頭で伝えたあと、要点だけチャットにも残す(言い直しの回数が減ります)
- 用件を先に言う。「見積の件で、一点確認です」——先に枠を渡すと、相手は少ない情報でも推測できます
- 距離と向きを変える。斜め後ろから話しかけない。半歩、正面に入る
なお、声量を上げているのに聞き直される場合は、大きさではなく通り方の問題かもしれません。これは音量を上げるほど悪くなることがあるので、まず名前を呼ぶ方法に切り替えて、聞き返しの回数が変わるかどうかを見てください。
ここでは、原因を体や性格の側に探しにいくことはしません。この記事が扱うのは、今の職場で明日から動かせる部分だけです。
聞き返される回数が、減っていく
——今までのあなた。
相手の背中に向かって「すみません、あの」と言いはじめる。反応がないので、もう一度。振り向いた相手は、もう少し不機嫌そうに見えます。用件を言う。「え?」。言い直す。三度目には、伝えたかった中身より先に、申し訳なさのほうが大きくなっています。
——名前から入るようになった、これからのあなた。
「田中さん」
相手が顔を上げます。目が合います。それから、いつもの声で言います。「昨日の見積の件なんですけど」。
「ああ、はいはい」
一度で通ります。声は、一ミリも大きくしていません。
全部の場面でうまくいくわけではありません。名前を呼んでも気づかれない日もあります。それでも、聞き返される回数は減っていきます。減った分だけ、言い直すときのあの気まずさに使っていた体力が戻ってきます。
「名前を呼ぶなんて、わざとらしくないだろうか」——そう思うかもしれません。けれど、名前を呼ばれて不快になる人はほとんどいません。むしろ、背中に「すみません」を投げられるより、ずっと感じがいい。あなたが気にしているほど、それは目立ちません。
声が小さいのは、あなたの性格の欠陥ではない
「声が小さい」と言われ続けると、それが自分の性格の話に聞こえてきます。気が弱い。自信がない。暗い。そういうことにされていく。
でも、実際に起きているのは、もっと小さなことです。話しはじめの数語が、聞く態勢になっていない相手に向かって出ていた。それだけです。順番を変えれば、変わります。性格を変える必要はありません。
そして、あなたが今日から変えられるのは、声の大きさではなく、話しはじめる瞬間のほうです。
なお、声は出ているのに上司の前だけ頭が真っ白になって言葉が出てこない、という場合は、扱っている問題が違います。上司の前で萎縮してしまう|真っ白になっても言える一言のほうが役に立ちます。声を出す前に、そもそも話しかける踏ん切りがつかないなら話しかけたいのに話しかけられないを、用件を言い切る確信のほうが揺れているなら上司に相談できないを先に読んでみてください。
参考文献
Cherry, E. C. (1953). Some experiments on the recognition of speech, with one and with two ears. The Journal of the Acoustical Society of America, 25(5), 975–979. https://doi.org/10.1121/1.1907229
Marslen-Wilson, W. D. (1987). Functional parallelism in spoken word-recognition. Cognition, 25(1–2), 71–102. https://doi.org/10.1016/0010-0277(87)90005-9

