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朝、いつもより早く目が覚めます。
今日こそ言う、と決めています。昨日の夜、頭の中で何度も練習しました。「お話ししたいことがあります」から始めて、「一身上の都合で」と続ける。そこまでは、もう言葉になっています。
会社に着きます。上司は電話をしています。——今じゃない。
午前の会議が終わります。今度は誰かと立ち話をしています。——今じゃない。
昼が過ぎ、夕方になります。そして、定時が来ます。
今日も、言えませんでした。
帰り道で思います。明日こそ、と。
同じところで止まっている人は、たくさんいます。
- 「今日、退職を伝えるつもりでしたが言えませんでした」
- 「至急!! 退職を言い出せません!! 今日絶対に言うと決めて……」
- 「いざ伝えるとなると、急に緊張してしまって言えずに1ヶ月ほど経ってしまいました」
そして、こういう人もいます。
- 「転職先はすでに決まっているのですが、上司に退職すること言う勇気が出ずに2週間ほどずっと悩んでいます」
転職先が、もう決まっている。それでも、言えない。
この記事で渡したいものは、ひとつだけです。ただしそれは、「どう言うか」ではありません。
言う日を、勇気ではなく日付で決める
「退職 言い出せない」で調べると、切り出し方が出てきます。結論から先に伝える。相談ではなく意思として伝える。不満は言わない。
たぶん、あなたはもう読んでいます。
そして、それでも言えていない。
だとしたら、足りないのは言い方ではありません。
足りないのは、日付です。
「今日言う」と自分で決めているうちは、毎朝あなたが選ぶことになります。上司の機嫌、自分の体調、部署の忙しさ。どれかひとつでも欠けていれば、「今日じゃない」を選べてしまいます。そして明日も、同じ判断をもう一度することになります。
やることは、ひとつだけです。
退職したい日から逆算して、就業規則に書かれた申し出の期限を調べる。その日を、カレンダーに入れる。
その日は、あなたが決めた日ではありません。会社の規則が決めた日です。だから、朝になって選び直すことができません。
なぜ「今日言う」と決めると、言えないのか
理由①:先延ばしは、意志の弱さではない
先延ばしについては、これまでの研究を大規模にまとめたメタ分析があります(Steel, 2007)。そこで示されているのは、先延ばしの起きやすさが「意志が強いか弱いか」という一つの性質だけで決まるものではない、ということです。その課題がどれだけ気が進まないか、うまくやれる見込みがあるか、そして締め切りまでの時間がどれだけ離れているか。そうした条件の組み合わせが効いています。
裏を返せば、条件が変われば行動も変わります。
「今日言う」には、締め切りがありません。今日を逃しても、明日という今日がまた来ます。期限のない期限を、毎朝設定し直しているようなものです。
理由②:返ってくる反応を、実際より大きく見積もっている
「明日仕事を辞めると伝えるのが怖いです。なんて言われるんだ」
これも、実際に書かれていた言葉です。
自分の失敗や気まずい振る舞いが他人にどう見られるかを調べた研究があります(Savitsky, Epley & Gilovich, 2001)。人は、それが他人からどれだけ厳しく評価されるかを実際より大きく見積もる傾向があります。周りは、こちらが思うほど見ていないし、思うほど厳しく判断していません。
退職を伝えることは、そもそも失敗ではありません。それでも頭の中では、「引き止められる」「怒られる」「裏切り者だと思われる」という場面が、実物より大きく再生されています。
理由③:緊張は、相手に見抜かれていない
透明性の錯覚(illusion of transparency)と呼ばれる現象があります(Gilovich, Savitsky & Medvec, 1998)。人は、自分の内側の状態——緊張、動揺、隠している気持ち——が、実際よりも相手に伝わっていると感じます。
声が震えたら。手が汗ばんだら。それだけで見抜かれてしまう。そう思っているかもしれません。
でも、あなたが感じている緊張の量と、相手に見えている量は、同じではありません。
日付は、自分の外側にある
では、その日付をどこから持ってくるか。取りに行く先は、二つあります。
一つ目:自社の就業規則
厚生労働省が公開している「モデル就業規則」の第52条(退職)には、こう書かれています。
退職を願い出て会社が承認したとき、又は退職願を提出して 日を経過したとき
日数のところが、空欄になっています。国が示すモデルの側では、埋めていません。何日前までに申し出るかは、会社ごとに定める前提だからです。
だから、あなたの会社の就業規則には、そこに数字が入っています。30日かもしれないし、1か月かもしれません。まずは、それを見ます。
二つ目:民法
同じモデル就業規則の解説には、こう書かれています。
期間の定めのない雇用の場合、労働者はいつでも退職を申し出ることができます。また、会社の承認がなくても、民法(明治29年法律第89号)の規定により退職の申出をした日から起算して原則として14日を経過したときは、退職となります(民法第627条第1項)。
条文そのものは、こうです。
当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。(民法第627条第1項)
「会社の承認がなくても」。これを書いているのは、厚生労働省です。
引き止められたら終わり、と思っているかもしれません。でも、承認は条件になっていません。
なお、民法第627条の第2項・第3項は使用者の側からの解約申し入れについての定めで、労働者には当てはまりません。混同されやすいところです。
また、就業規則の期限と民法の2週間のどちらが優先するかは、事案によって判断が分かれます。この記事は公的資料をもとに「どこに線が引かれているか」を整理したもので、個別の判断を保証するものではありません。
言えなかった日々が、終わる
——今までのあなた。
朝、決意して家を出ます。夕方、言えないまま帰ります。帰り道で「明日こそ」と思い、家に着く頃には少しだけ自分が嫌になっています。それが2週間続いて、まだ何も始まっていません。
『——…これからのあなた。』
カレンダーに、予定がひとつ入っています。あなたが決めた日ではなく、規則から逆算した日です。その日が来るまでの毎朝、「今日言うかどうか」を考える必要がありません。考えることが減った分だけ、目の前の仕事に手がつくようになります。
私も、逃げるように転職したことがあります。あのとき、いちばんしんどかったのは、上司と話した十数分ではありませんでした。話すまでの三週間です。毎朝決意して、毎晩取り消す。あれを繰り返している間、仕事も家のことも、何ひとつ手につきませんでした。
言えなかったのは、あなたが弱いからではありません。決める日が、決まっていなかっただけです。
今日やること
就業規則を開いて、退職の申し出の期限を1行だけメモします。
それだけです。今日は、言う準備はしません。
- 社内のイントラネットか、入社時に配られた冊子を探します
- 「退職」の条を見ます。「◯日前までに」という数字があります
- その数字を、メモに1行だけ書きます
見つからなければ、それも1行です。「就業規則が見つからない」と書いておきます。そのときは、民法の14日が、あなたの手元に残っている数字です。
日付を出すのは、そのあとで構いません。今日はまだ、数字をひとつ知るだけです。
それでも、その日に言えなかったら
ここまでの方法は、「自分で言う」ための道具です。
ただ、それが向かない状況もあります。
- 怒鳴られる、人格を否定されるといったことが日常になっている
- 体調が崩れていて、出社そのものが難しい
- 何度日付を置いても、その日に声が出なかった
こういうときに、退職代行という手段があります。自分では伝えず、代わりに手続きを進めてもらうサービスです。弁護士が対応するものであれば、有給の消化や未払いの残業代といった交渉ごとも扱えます。
ただし、これはお金のかかる選択です。先に、日付を置く方法を試してください。それで言えたなら、そのほうがずっと安く済みます。
自分で伝えるのが、どうしても難しいとき
弁護士法人ガイア総合法律事務所の退職代行は、弁護士が対応するため、有給の消化や、損害賠償を持ち出されたときの対応まで扱えます。LINEから相談できます。
※費用のかかるサービスです。まずは上の「日付を置く」方法を試してみてください。
言えないのは、あなたが弱いからではない
「退職したいですとなかなか言えない小心者です」と書いていた人がいました。
でも、転職先を決めた人も、退職日を決めた人も、同じように言えずにいます。意志が弱いから言えないのではありません。言う日が、まだ自分の中にしかないからです。
自分の中にある日付は、毎朝書き換えられます。規則から取ってきた日付は、書き換えられません。
今日は、就業規則の1行だけ、探してみてください。
参考文献
- Steel, P. (2007). The nature of procrastination: A meta-analytic and theoretical review of quintessential self-regulatory failure. Psychological Bulletin, 133(1), 65–94. https://doi.org/10.1037/0033-2909.133.1.65
- Savitsky, K., Epley, N., & Gilovich, T. (2001). Do others judge us as harshly as we think? Overestimating the impact of our failures, shortcomings, and mishaps. Journal of Personality and Social Psychology, 81(1), 44–56. https://doi.org/10.1037/0022-3514.81.1.44
- Gilovich, T., Savitsky, K., & Medvec, V. H. (1998). The illusion of transparency: Biased assessments of others’ ability to read one’s emotional states. Journal of Personality and Social Psychology, 75(2), 332–346. https://doi.org/10.1037/0022-3514.75.2.332
- 民法 第627条第1項(明治29年法律第89号)|e-Gov法令検索 https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 厚生労働省「モデル就業規則」第52条(退職)および解説 https://www.mhlw.go.jp/content/001620507.pdf

